講師 橋本素子氏(公益社団法人京都府茶業会議所理事)
宇治茶の中世は伝説の時代である、という先生の言葉で始まった講演会。
伝説の成立過程
南北朝期以降の資料…栄西から譲られた茶を3本植えた
1420年の資料…栄西から茶の種を渡された。本の茶は栂尾、非は宇治等の事
1400年代後半の資料…栄西が宋から持ち帰って明恵に伝える。(明恵が茶を広める)
1564年資料…栄西の記述が見られず、明恵が中国から持ち帰ったことになっている
しかし、資料として価値のある同時代資料は2通のみ。そこからわかるのは、下記2点。
明恵上人が知り合いにお茶のもてなしを約束している事
茶の実がまだ熟していないので、頃合いになったら差し上げる=高山寺には茶の木が 植えられていた事
闘茶「本非茶」の変遷
南北朝時代「異制庭訓往来」…「栂尾を以て第一となすなり。」宇治は次のグループ6箇所の中に入る
1383年資料…「栂尾・宇治茶などにてありとも~」と並列されている
ただ、この時代、栂尾が上だという資料も残っている
15世紀後半(応仁の乱あたりから)資料…宇治と栂尾が両方トップである
2.「宇治七名園」伝説
伝説の成立
1564年「分類草人木」…足利義滿に仙人が茶を進上するという荒唐無稽な内容だが七名園の名が出てくる最初の資料
1612年資料…だいたい上記と同。「異説これあり」とも書かれている
同時代資料「朝日園」、「森園」の名は見られるが、七名園の他の名は表れていない
宇治大路氏の活躍
宇治大路氏は室町幕府の奉公衆でもあったが、槇島城の戦いにおいて足利方について敗北し、以後、歴史には出てこなくなる →茶師として、上林氏などが台頭宇治茶師たちは、五ケ庄、白川、一の坂などに点在していたが、だんだんと土地を買求め、宇治橋周辺(宇治郷)に集まってくるようになった
3.明恵から宇治へ「駒の蹄影」伝説
伝説の成立1652年の資料(明恵の時代のほぼ400年後)…「駒の足陰」と書かれている
1676年売茶翁「梅山種茶譜略」 異なった内容が書かれている
明慧(明恵?)が中国に行った
義滿が大内義弘に命じて、栂尾の茶を宇治に植えた 云々
(宇治の製茶家が毎年新茶を栂尾にお供えするなどとも書かれている)
1748年の資料 1676年に書かれたものを引用(孫引き)
ここで初めて「梅山の尾上の茶の木分植えて迹ぞ生べし駒の蹄影」と記載
「駒の蹄影」園のある五ケ庄は室町時代には高山寺・入江坊雑掌によって管理される
1436年には同じ高山寺内の閼伽井坊雑掌と揉め事があったことがわかる
4.まとめ
宇治茶はトップブランドゆえに伝説が重なりあうブランドの条件…オリジナリティー、ストーリー、ロイヤリティー、イミテーション
伝承はブランドが深化するにつれて作られていく
【お抹茶とお菓子で一服】と質疑応答、まとめ
橋本先生のお好きなお抹茶をめいめいで点てていただき、歓談の時間を設けました。質問では、今まで話をしていた事が伝説なら、これからどのように説明したらよいのか
という意見も出ましたが、「~と言われています」という説明をするのは良いのでは
ないかということです定員50名を上回る方にご参加いただき、とても有意義な時間となりました。貴重な講演をいただきました橋本素子先生、参加者の皆様、開催にあたりご協力下さいました方々にお礼申し上げます。
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